《私の本棚 第百四十六》  平成21年5月号   

       「津 軽」   太 宰  治  作

 昭和19年春に津軽半島を三週間掛かりで一周。それを文章にしたものがこの作品です。太宰は金木にいる頃は、出歩かないためわずかな地域しか知らずに過ごしてきましたが、書店の依頼により執筆のため取材旅行をしました。「新風土記叢書」 の中の津軽を書いたもので、そのため旅行案内書のように気軽に読めます。一口で言えば、よれよれの格好で東京から出発します。蟹田 (津軽半島の東側) で、友人のN宅へ立ち寄り、彼と龍飛崎へ向かいます。太宰はNとともにかなりの酒豪で、立ち寄り先ではいつもしこたま飲みます。小説家としての意地は、酒を飲みながら (飲まれてはいない) 同席の数人がある一人の小説家を褒めそやすのを聞き、ムキになって罵倒する場面から察する事ができます。自分も認めてはいる小説家なのですが、皆が自分の作品の事を聞いてくれないので余計に反論したようです。子供のようなところがあります。(因みにその小説家は志賀直哉) 三厩近くでは二尺の鯛を買います。太宰の頭の中では丸のままで塩焼きにして酒を酌み交わす算段ができあがっていました。ところが三厩の宿では、どう気を利かせたのか、頭も尻尾もなく骨も無い五切れの白身魚がでてきます。地団駄を踏んで悔しがり食べません。旅行から帰ってきても思いが消えないくらいです。(いやぁ、分かるなあその気持ち。言いようのないというか、子供じみて言えない悔しさがねぇ)

 徒歩で龍飛に着いたときの様子 (下記抜粋) が、その地を表現し尽くしていると思います。

・・・・・・もう少しだ。私たちは腰を曲げて烈風に抗し、小走りに走るようにして竜飛 (龍飛も竜飛も併用されている。古綴は達北、立火、達飛がある。)に向かって突進した。路がいよいよ狭くなったと思っているうちに、不意に、鶏小舎に頭を突っ込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかった。「竜飛だ。」 N君が、変わった調子で言った。「ここが?」 落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなわち竜飛の部落なのである。凶暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになって互いに庇護し合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路はない。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。・・・・・・

 本名津島修、平成21年は生誕百年。旧制弘前高等学校 (現弘前大学) の入学時写真と入学時成績14番と書かれた学籍簿が発見されました。 
龍飛崎




龍飛崎
 
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